意外と勉強が好きだった話(思い出)

まず、何をもって「意外」と言っているかということから説明すると、コレを見ている人間は恐らく俺が勉強している姿を見たことはほとんどないだろうからだ。自分でも大学で勉強した時間よりも盤外戦術に力をいれた時間のほうが長かったように思う。それを良しとしているわけではない、セコイことをするのは協力者が不可欠であり、それがない今、高校の政経の知識程度で少なくともあと数単位取得しなければならない危機的状態に陥っている。

 

中学1年から高校2年までの間ほとんど勉強したことがなかった、勉強したことがなかったという感想は主観的な要素を多く含んでいるから客観的な要素で説明すると、高校2年生の頃くらいまで進研模試の総合偏差値が30~40で、高校3年の春が45くらいだった。高校1年の秋頃の定期試験で10科目中8科目で赤点を取り200人弱の学年でワースト2だった、ちなみにワースト1は俺のツイートによくいいねをしているかいじという人間である。さすがワースト1はワースト1らしい街道を進んでいるといえる。

 

それから高校2年の夏ごろに転換点となる出来事があり、何をすれば受験勉強となるのかはまるで理解していなかったがとにかく定期試験のための勉強をするようになった。その結果学年最後の期末試験では12位となり、これが自信を大きくつけてくれた。ただ、定期試験と模擬試験は、野球とサッカーとまでは言わないが野球とソフトボールくらい違うと思う。このころの俺は定期試験では上から数えた方が早かったが、模擬試験では相変わらず後ろから数えた方が早かった。しかし、そのときにはもう模擬試験やその先の本試験に対応できるようになるという確信があった。その理由はただ1点で、明らかに多くのクラスメイトよりも勉強をしていたからだ。定期試験前になると朝5時に起き、寝るギリギリまで詰め込んでいた。高校2年冬の時点で受験勉強に対する心構えが完了していた。

 

それから高校3年になり、親に東進衛星予備校に行かせてくれと懇願した。結局のところ数か月間自力で模試の点数を上げることはできなかったことがこの決断に至らせた。山の登り方を知らない内に山に登るのは無謀、1年しかないのだからインストラクターを付けて山に登るべきだと考えた。親からすればたまったものではなかったろうがとにかく了承は得た。まさに進研ゼミのマンガの典型例の様な形で東進に入信した。結果から言えば入信したことは学力向上に大いに役立った。莫大な金銭と引き換えに基礎の基礎から教え込まれ点数は半年で900点満点の内300点程向上した。

 

他に学力向上になった要因は寮生活にあった。自分の寮では4人部屋制というのがあり、内部進学生は高1から、外部進学生は高2から8畳ほどのスペースに4人で生活しなければならない制度だった。この4人はランダムで抽選されるわけではなく、個々人が好きなように部屋員を決めることができ、各々部屋員を主体的に選択した。しかし、この4人部屋制というのがなかなか厄介で、一度トラブルが発生すると、風呂入ったり寝るとき、食うときに馬が合わない人間と一緒に行動しなければならない状態になる。通称「部屋崩壊」と呼ばれる現象である。俺はこの部屋崩壊を何度も経験した。経験したという書き方は正しくないかもしれない、俺は部屋崩壊を主体的に起こしていた。何か気に入らないことが起これば八つ当たりをし、ケンカというよりは一方的に暴力を振るっていた。高2でも部屋崩壊を経験したが珍しく1対3の構図で自分はマジョリティ側だった(1のヤツはケンカが強かった)。とにかく高1、高2の両方で部屋崩壊したり、されたりした。そんなわけで「アイツは部屋壊すから一緒にならないほうが良い」という噂が出回り、高3のときは部屋を組む人間を探すのに苦労した。最終的に言葉を選ばずに言うと「余りモン」の部屋になった。通常4人で部屋を組むはずが3人部屋となり、他2人もどんなに好意的に見積もっても好かれてはいない人間だった。ウチの高校は他の学校と比べていじめは少ないほうだったと思うが数少ないイジメられ系と部屋を組むことになった。俺はこいつらと同じだと周囲に思われているのかと思うと、ちょっと、いやかなり凹んだ。だが皮肉なことに残念部屋になったおかげで俺の受験勉強は捗った。元々興味ない人間と一緒になったので愛想よく話したり、空気を読んだりする必要がない。一年間通して(俺のエロ本が勝手に見られていたときと、部屋員がゲームを持ち込んだのがバレてペナルティで掃除を連帯させられそうになったとき以外)ほとんどケンカすることもなかったし、期待0でスタートしている分、話してみれば意外と良いヤツに思えた(思い出補正だろう)。どんなに仲が良くても1年間8畳間に4人でいるとどこか関係に綻びが生じる、高3の自分しか見えない大事な時期に周りが人間関係で揉めている中、一心に勉強することができたのは相対的に見て大きかった。

 

そんなこんなでセンター前最後の模試では7割ほどの点数が取れるようになり、伸びしろを考えると「もしかしたら九大に行けるかも」、自分だけでなく俺の変化に気づいていた人間たちにもそう思わせていた。しかし、現実はそんなに甘くなかった。いざセンター試験本番、英語の試験中に右斜め前の受験者が全文に線を引きながら文字を読んでいる。その音が気になってしょうがないことと、絶対に良い点を取らなければならないという使命感が激突し、試験中に心が折れる音が聞こえた。結果的に文法の部分までしか解答できず200点の内88点しか取れなかった。2日目の数学は単純に実力が足りておらず欲しい点数には到底及ばなかった。フタをあけてみると全体で6割程度しか点数が取れておらず、この結果を知り完全に心は壊れた。そこから1か月同じように振るわなかった人間と一緒に傷のなめ合いをしながら寿司食ったり、ラーメン食ったりしながら10㎏太った。デブの才能だけはあるらしい。

 

(思いのほか長くなったので巻こうか検討している)

 

とりあえず志望校以外も受けろという親と寮教諭の助言により、中央大学の文学部と法政大学の文学部を受けた。特に何の思い入れもないが中央大学はキャンパスが広かったことは覚えている。法政は落ちたが中央は受かった。ただ、俺は九大に受かるためだけに受験勉強を始めたから、ハナから中央大学に行くつもりもなかった。親に入学金は入れないでくれとだけ電話した。(後々入学金を入れるかどうかで夫婦喧嘩したらしいことを知る)

 

九大文学部前期試験日が来た、落ちると分かっていて受けたから特に何も感じてはいなかった。少しだけ受かっていてほしかった。母と合格発表を見に行った。「受かってないから」と100回は言った。

 

九大文学部後期試験日が来た、落ちると分かっていて受けたから特に何も感じてはいなかった。ほんの少しだけ受かっていてほしかった。母と合格発表を見に行った。「受かってないから」と300回は言った。

 

俺は浪人する、センター試験を終えた翌日からその確信があった。その決断をしていた。ただ、どこで浪人するかはまだ決めていなかった。そんなとき、天神の駅広告で見かけた北予備の「お母さん、一生懸命頑張るから浪人させてください(お願いだっちゃ)」のポスターが目に入り今の自分とぴったり重なった。北予備はこういう情に訴えかける作戦が本当に得意だと今になって思う。北予備に入信した。

 

(枝葉末節だが)北予備に入る前に学力調査というのがあり結果次第で学費が変わるのだ。そのためセンター試験の結果を受け付けの壮年男性に渡した。「君の高校の割にはちょっと点数が残念だね」笑ってみせたその顔に殺意が湧いた。俺がもう少し精神的に切迫していたら受付に置かれたイスを持って殴りかかっていた。

 

北予備に入ってからは勉強自体はそこまで苦ではなかったむしろ楽しかった。板書というシステムがあり、授業の設問の解答をこれ見よがしに白板に書きつけ、自身の有能さをアピールできるシステムがあり、自己主張を白米のお供にしている自分にとって最高の場所だった。勉強の能力で言えば文系クラスの中でもそこそこ勉強できるポジションにいたように思う。ただどこの予備校も同じようなシステムだろうが、各クラスに1人チューターという存在がおり、自分はコイツと馬が合わなかった。毎朝「お前たちは才能がないんだから毎日毎日死ぬ気で努力しろ」と説教垂れる、典型的な熱血野球部顧問という感じで俺だけでなく、クラスの多くの人間が嫌っていた、ということになっているが、その実チューターに好かれようと皆努力していたように見えた。そういう斜に構え精神を見破られたのか特に俺は好かれてはいなかった。他にもチューターに嫌われていた人間は多くいたが、俺はとりわけ精神が腐っていると言われていた。ちなみに大学でも同じクラスになるhjtも嫌われていた、と同時に憎めないやつだと思われていそうに見えた。俺は正真正銘救えないと思われていそうだった。これは推測なのだがあの時の俺は人に好かれようとして空回りしていたんだと思う。チューターの反感を買った最初の事件は5月に行われるクラス親善目的のキックベース大会に参加しないということだった。不参加の理由を「自分が参加しなければ他の人間が多く活躍できる機会を得られるから(本当は実力があるが代わってやった)」と上から目線で説明したことがチューターを怒らせた。本当にそう思っていたの半分で残り半分はクラスの女子の前でみっともない姿をさらすのが嫌だったんだと今になって思う。他にも学力のほうは多少余裕があったからなのかビデオ撮影されている授業でウケを狙って何回も何回もクソ滑ったりとにかくどうにかしていた。それくらい年頃の女子という初めての存在が俺を狂わせていた。

 

秋になると順調だった成績に陰りが見え始めた。自分の英語読解力の全盛期が9月くらいで、そこから一気に下がり始めた。現役生が学力を上げたからではない。単純に自分の点数が下がっていた。180点以上取れていたのが160点、140点と下がっていく。英語の文章を見て問題に答えるということがどういうプロセスの上で行われるのか意味が分からなくなった。完結に説明すると英語の読解に対してゲシュタルト崩壊を起こしている、そんな状況だった。ただ上手くいかないのは英語だけではなかった。倫理政経の授業が冬休み前までに終わらないことが分かり、それまで試験対策を授業に任せていたので自分でやらなければならなくなり、そこから自学自習を始めるという何ともトンチンカンな勉強が始まり、焦りからか自習時間1コマで倫理政経の参考書すべての欄を流し読みするという意味不明なことを繰り返していた。

 

センター試験本番、前年のような明らかな失敗はしなかったものの、倫理政経は確実に失敗したという確信があったが心にフタをしてなかったことにした。その他には明らかな失敗はしなかったが数学は両方とも難しかったという会話をした記憶があるがなんとかなった、俺は乗り越えた、そんな気がしていた。

 

結果、7割5分とかなり予想していた点には遠く及ばず、自身の無力さを泣いた。自己採点当日はそれ以降一歩も動けなかった。それから2週間くらいは心ここにあらずという感じだった。その気持ちを乗り越えられたのはある動画だった。スンゴイダサいからあまり書きたくはないが、遊戯王5dsというアニメのラスボスとの戦闘シーンで主人公である不動遊星が幾多の困難を仲間と乗り越え最強のシンクロモンスター、シューティング・クェーサー・ドラゴンを召喚するシーンである(うわダッセー)。たとえわずかでも可能性がある限り諦めない、その姿勢が自分を動かした。それからはできる限りのことはした。方法として合理的かどうかはもう判断する余力はなかったがとにかくできることをした。九大の赤本を新しい順に解き、わからなかった箇所は赤本の通りに全て写経した。これをすることで、ある程度解答の方向性、何が正解とされているのか自分なりにつかめた。結果的に自分としては上手くいった方法だと思っている。

 

その年は九大以外に同志社大学の法学部、経済学部を受けた。センターの結果が悪くても九大受けると決めていたから全滑りを避ける目的だ。同志社の問題ははっきり言ってよくわからなかった。それまで用意してきたセンターや二次試験問題とも違う系統の問題で文中のイディオムとか世界で一番どうでも良いことを何回も問うてきて、ただでさえ英語イップスだった俺はもうわけがわからなかった。よく言えばなかなかの難易度だったと言えるだろう。そんなこんなで先に受けた同志社経済学部の試験はネットで発表で恐る恐るみると、、、不合格だった。世界の終焉、黙示録第7番目の天使がラッパを鳴らした、そんな気分だった。もうどうしたら良いのかわからなかった。慌ててチューターに立命館大学の二次試験を受けることを半ベソで相談した。そして日が経ち、同志社大法学部の結果が発表された、恐る恐る見る、、、合格していた。

 

同志社大学の発表はどちらも寮の自室で確認した。1回目の不合格は周りの友人たちには顔に性格の出やすい俺の表情を見ればわかったという。2回目はさらに、察するまでもなかった。

 

受かった、そのことがわかった瞬間俺は部屋を飛び出し、叫んでいた。と同時に泣いていた。これまでのすべての重責から解放されただの獣になっていた。うおおおおおおおおおおおおお、この雄たけびで寮にいる100人が俺が受かったことに気づいていた。この瞬間が今のところ生きていて一番嬉しかった瞬間かもしれない。膝小僧をすりむいて泣いた5歳児のように19歳が泣いて暴れていた。その後、自習をしに北予備に向かうと、事情を先回りして知っていたチューターに「お前他の受かってないやつもおるんやから騒ぎ立てるな」と説教され、後に祝福された。

 

それからは不思議と調子が良かった。チューターはなんだかんだで俺のことをよく観察しており、「調子が良いときはとくに良いが、悪いときはとことん悪い」と表現していた。まさにその通りで、もう最低限の満足行く進学先を抑えた自分は九大を目指すどころか、同志社でいいやと思うようになっていた。この心の余裕がさらなる力を引き出した。

 

九州大学法学部前期1日目、確か英語と数学だったはずだ。今だからハッキリ言うが俺はカンニングするつもりだった。狭い教室、ザルそうな監視、ヤレル、そんな気がしていた。しかしヤレなかった。距離が近すぎるあまり、周囲の解答が体で隠れて見えないし、隣は首を90度曲げなければ確認できない、記述試験でチラ見程度で答案を作るのはいくら大学受験2年目の受験エキスパートの俺でも不可能だった。諦めて自力で解答した。そんな行いにタタリが起きたのか試験時間ギリギリになっても答案が出来上がらない。元々英文読解が遅い上に、謎の諦めないで一つの問題に取り組み続ける精神のせいで、英作文はギリギリになって2文程度埋めただけだった。

 

数学は自分の年は恐らく難しい年だったのだろう。サイコロを振って出た目によって法則性が変化する問題が難問だった、おそらく受験者のほとんどができなかったろう。今まで見た受験セオリーにない問題だった。俺はそこをほとんど白紙で出した、がなぜか自信があった。チューターから散々言われていた「お前らができない問題は皆できない問題」という助言があり、明らかにあの問題だけ異質に思えたからである。

 

2日目、国語の試験だった(ハズ)。今は亡き箱崎の大講義室で受験した。チューターが出迎えてくれており、北予備の仲間と遭遇した。「国語なんて絶対的な解答なんかあり得ないんだから埋めさえすりゃ満点ッスよ(笑)」完全にイキがっていた。ただこのイキりが上手くハマっていた。

 

1か月ほど経ち、合格発表を見に箱崎の記念館前に行った。誰よりも早く行った、着いたのは7時前だった。合格発表は確かその2,3時間後だったから傍から見れば変な奴だったろうと思う。とにかく誰よりも早く現場に到着した。次に来たのはテレビの取材、RKBかそこら辺の局が来ていた。俺とそのテレビ局の人間しかいないのだから、当然取材を受けることになる。受験生かどうか、合格していそうかどうか尋ねられた。俺みたいな人間が誰よりも早く来ているということは、当然受かってると思って来ているのだが、小学生から受験の酸っぱい部分ばかり味わってきたのでテレビの前で大きく出ることは出来ず、「多分受かってないと思います」と答えた。(弊ゼミ茶話会では1度話したことがあるがグレーのパーカーの下に派手な縦じまストライプの服を着ていった。落ちた時はそのままグレーで帰り、受かったときはすぐ様脱ぎだせる格好である)それから数時間が経ち、ぞろぞろと人が集まりだし、ついにその時が来た。

 

「あの」板に番号の並んだ紙が貼りだされる。皆が一斉に紙の前に押し寄せる、俺はしばらく人の流れを観察していた。受かっている人ばかりが胴上げされて目立つがその裏で確実に意気消沈している人間がいるのが見て取れた。俺はどっちなのだろう、確信はないが恐る恐る見た、、、自分の番号1224があるのかどうかこのときばかりは神に祈った。あった。やはりその瞬間も同志社のとき同様叫んでいた。ただ、嬉しかったがすべての重責から解放された同志社ほどではないなという考えがチラついたがそのことを一時封印した。チューターはまさか俺が受かっていると思っていなかったようで、とても驚いた様子だった。「お前ちょっと凄いよ」「ちょっとだけですか?(笑)」「イヤまじで凄いわ」という一連の会話でチューターに一泡吹かせられた気がした。内心は運によって合格したとも思ったが、「これが俺の実力じゃーーーーーーい」と言って箱崎を走り回り、ヨット部に胴上げをされた。帰り際に同じクラスのセンター試験で上手くいっていたやつに話しかけようと思ったが寸前のところでやめた、後になって知った話だが不合格だったらしい。もう気が動転しており、電車の中で自分の心臓がいつもの3倍の速さで動いているのを抑えようと必死になっていたら博多駅で降りられずに東比恵まで乗り過ごした。人生初めての東比恵だった。

 

二次試験の結果は英語が合格者平均の10点下で、国語が合格者平均程度、数学は合格者平均の20点以上上回っており、フタを開けてみればまあまあ余裕をもって合格していた。これが俺がまた大学で心折れてシャドバガイジになるまでの2年間である。

 

まだ受験勉強のときの思い出話ばかりで、勉強が好きだった話にはあまり触れていないから触れていこう。俺は勉強を始めたばかりで全く勉強ができなかった高校2年の頃から勉強が好きだった。何にもできない内から必ずできるようになる確信があった。乗り越えるべき試験のために対策を練りながら勉強するのは、来たる日に対峙するボスキャラのために強い装備を集めたり、強化したり、戦略的に弱点をついたりシステムの穴をつくRPGと同じに思えた。勉強の中に、如何にして8000の相手ライフを削るか、そのためにどう合理的な選択をするかという遊戯王を感じていた。中学受験終了とともに人生で初めて手に入れたゲームという存在に狂い費やした時間、それを親や教員、寮教諭は所詮は役に立たない玩具によるストレス解消の結果と軽視していたが、その実ゲームこそが勉強の基礎だった。いや、ゲームこそ勉強だった。格ゲープレイヤーが昇竜拳コマンドを最短で出そうとするように、この勉強というゲームが上手くなりたい。その一心で自分なりに一生懸命準備するのだが、上手くいくことよりも失敗することの方があまりにも多く、結局最後の最後まで横綱相撲で合格することなんて1回もできなかった。そういう上手くいかなさが心地よかった。多分マゾヒストなんだろう、適度に打ちのめされる感覚が楽しかったし、乗り越えた達成感は何物にも代えられなかった。ああセンチメンタルだなあ。

 

 

 

 

 

 

現状と考えていること

自分には現状やらなければならないことが2つあることになっている。会社への就職と大学の卒業だ。ただ、どうしてもそれに対応しようという気概が起きない。端的に言って馬鹿げているからだ。就職活動の場では内心と異なることを説明しないといけない(ことが多い)。一概にそうとは言えないが、就職活動は自分が「有用」であることを説明させるに留まらず、長いものに巻かれるためには内心を偽る活動を包含している。仮に自分が会社の人事部だったとして、「趣味はアニメのキャラクターになり切りながら自慰行為をすることです!日に5回は絶頂に達します!」と履歴書に書かれていたならば無言でシュレッダーに突っ込むだろう。このように立場を逆転させて考えると就職活動はポーカーのような性質のゼロサムゲームだと言えるし、一定の理解ができなくもない。ただその先には職場で最も権力を持つものが「白」と言えば黒が白になる空間が広がっており、そのような場所で呼吸することにいまだ抵抗がある。自分自身が当事者として働く以前からこのような考えを持つのは危険であるとも感じていたが、先に卒業した友人の様子をみていると、自身の考えがそこまで的外れではないように思う。

 

しかしやらねば。そういう気分だけはある。良い、またはあるべき人生を歩まねば。自分は小学1年生の頃から学習塾に通っており、中高は私立寮制の学校でさらに浪人、留年の役満人生であるから、最低限度の義務教育までで教育が終了した人間のおよそ倍程度の資産を投資されている。その親の期待とやらを「コンドームを装着せずにセックスしたことの代償」と揶揄するほど薄情でもない。

 

だから良い人生を歩まねばならない。しかしそれと同時に付きまとうのは良い人生とはなんだ、あるべき人生とはなんだというやりつくされた疑問。そんなものに答えなどない。答えはないが、ぼんやりと偏差値50より55、55より60の人生が良いということになっており、その流れと縁を切ることはできない。次のステージでは自身の収入と、手に入れた女の数とその顔と胸と尻の良し悪しで人生の偏差値が測定されるのだろうし、きっと死の直前には墓にいくらの費用をかけたのかで張り合っているだろう。

 

俺は人生の浅瀬でチャプチャプしている。欲しいもの全てが手に入る幻想を抱き、何かを選ぶことも捨てることもできないままでいる。大学に入学したあの日から何一つ変わっていない。いや、入学時の熱量が失せた6月くらいから変わっていない。シャドウバースのカードと効果を他人より多く記憶しているだけだ。(アンリミテッドのミントネクロデッキは楽しい。ソリティア完成の目標地点に到達するまでにいくつかの分岐が存在しており、状況に応じて使い分けたり、使い分けられなかったりする揺らぎが心地よい。)

 

こんなときスゲー人間ならウルトラCで状況を打開するのだろうが、俺は凡人だからなにもできないやるせなさとどうにかしたい焦燥感の2つだけがある。いや、凡人ならある程度のところで社会に合流できるだろうから凡人未満なのか。これから俺が凡人になれるかどうかはまだわからないがなれると良い。

 

わからない、先のことなど何ひとつ。いいや違う。分かってきた。自分には子供の頃憧れていた輝かしい人間やこうなりたい人間には全く届かないことが。それでも生きていくことの心労は計り知れないが生きていかねばならないと思う。この「生きねば」こそ希望なのだろう。

 

久しぶりに文字を並べたら中学生のときに習う語彙しか使えないことがわかり、語彙を駆使するという点で本読みという、傍から見ていて最も偉そうな趣味には一定の効果がありそうだ。