やりたいこと

俺は就活というものに相変わらずまともに取り組めていない。エントリーも1社も出来ていない。しかし少しづつではあるが変化してきている。最近就活について数万フォロワーいるアカウント(就活系ではない)にDMで相談した。自分のフォロワーに相談しないのは俺の人間性を知りすぎているためである。仮に相談しても「世の中そういうもの」だとか「頑張れ」くらいしか俺にかける言葉がない。だから君らには相談していない。君らが俺にできるのは俺のツイートを全部いいねする、これだけだ。

 

そんなわけで就活についてツイッタラーに相談してみたところ、以下のことが告げられた。やりたいことがないのは自分への理解度や理想への解像度が低いからである。志望動機を作成するには自分と相談するしかない。こういうことらしい。現時点で33人しかフォロワーがいない俺のためにウン万もフォロワーがいる人が親身になって回答してくれているのは非常に有難い。超絶クソ有難い。がしかしこの方向性の回答が飛んでくるのは前回の『壁』で書いた通り想定内であった。申し訳ないがこの回答では精神レベルが中学生の俺を満足させることは出来ない。でも仕方がないことだ。相談に応じてくれた人は俺の人間性を知らなかったのだから。抽象度の高い事柄には同じ次元でしか物事を語れない。

 

これだけ諭されたにもかかわらず、俺は未だにやりたいことを土台に志望動機を作るというのは少し無理があると感じている。それは働く前から会社の全貌を知ることは出来ないからである。なぜこの業界?業種?会社?部署?という疑問に究極的な解答を出すことは出来ない。具体的な労働と抽象的な就活の場では齟齬が発生するはずだ。どういう仕事がしたいと質問されても「そんなん仕事の内容によるやん」「そんなん一緒に働く人によるやん」とどうしても答えてしまう。結局やりたいこと→志望動機の考え方も就活に酔っているか自分に酔っているかのどちらかなんじゃあないかと思ってしまう。

 

こういうズレが生まれてしまったのは「やりたいこと」の前提や立ち位置が違うからなのではないか。「やりたいこと」を広く欲求と捉え、心理学者マズローの視点からやりたいことを考えてみる。マズローの欲求5段階説によると欲求というのは下から順に生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現の欲求という5段階から成り立つ。まぁ君らはお勉強いっぱいしてるだろうからこんなことわざわざ書くまでもないか。

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俺の「やりたいこと」は主に下2層の自分のための欲求に依拠しているのに対し、アドバイスをくれた人の「やりたいこと」は上3つ(自己超越含むと4つ)に依拠している。この設定ズレが結論のズレを引き起こしたのかもしれない。

 

これを見ている皆は就活を終わらせるために「やりたいことがありまぁす」と声高に叫んだはずだが、その後「やりたいこと」をやれているのだろうか。それとも場に与えられた「やりたいこと」に乗っかってポジションを作り、俺がまだ就活空間に抵抗しているのをアホらしいとほくそ笑んでいるのだろうか。俺は抵抗しているのではなく、モノを知らんがゆえに順応の仕方がわからないだけなのだ。

 

働きたいという気持ちはある。それは親から独立して生活することで人生の気兼ねなさを獲得するためである。今より少し自由でありたいと思うがそのためには不自由な就活を抜けて不自由な社会人になる必要がある。不自由の種類が変わるだけでどこへ行こうと自由にはなれないのかもしれない。このまま不自由を生き続けるしかないならせめて不自由の質くらいは管理できるようになりたい。