打ち身といいこと

 昨日のことである。予定通りジムに行こうと準備していると自室のドアに足の小指を思い切り打ち付けてしまった。あまりの痛さに自分が賃貸住宅に住んでいることを一切考慮せず数分間絶叫した。痛みが治まってきて恐る恐る打った小指を確認するとユムシの様に腫れている。骨折しているかもしれないと思うほどの痛みだった。実際確認していないので折れているかもしれない。それでもジムに行こうと決意したのだが、歩き始めるとあまりの痛さに1歩ごとに悶絶し、とてもジムまでは歩けないと悟り最寄りのコンビニまでたどり着いた後引き返した。

 今日は昼過ぎに起床し、すぐ足を確認するとやはり腫れている。昨日ほどではないが痛みは引いていない。とてもジムに行ける状態ではなかったが、昨日ジムに行っておらず最近ジムに行く頻度が落ちていたので今日は行かないわけにはいかなかった。

 歩き始めると昨日以上に痛い気がする。それでも引き返すわけにはいかないので1歩ずつ歩を進める。打った右足を引きづるように歩く様が異様なのか行き交う通行人たちに二度見されるが無視して突き進む。1年以上ジムでトレーニングをし、体力筋力ともに成人男性の平均はゆうに超えている自負があったが今の状態では小学生にも生後半年のチワワにも勝てないだろうと思い、何のためにジムでトレーニングしているのだろうと一瞬我に返ってしまったがそんな疑念を振り払い進んでいく。

 ようやくジムに到着し、予定していた種目をこなしていくが小指の痛みをかばいながらベンチプレスをした際に足をつってしまいこれ以上は無理と判断し帰宅することにした。帰り際にジムのオーナーと会うと、一瞬で足を怪我していることを見抜かれたので経緯を説明すると、「悪いことの後はいいことあるよ」と慰めてくれた。自分も「人間万事塞翁が馬」的な人生観で生きているのでオーナーの言っていることは最もなことだと思いつつも、それと同時に「いいことって何だろう」と感じていた。

 論理的に考えると悪いことが起きた後は必ず良いことが起きるわけではないというのは明らかなことだ。最悪を感じた次の瞬間に死が訪れたら良いことなど起きようもないからだ。つまり「塞翁が馬」は絶望に抗うためのただのまじないでしかない、という気がする。

 一方で「塞翁が馬」人生観も視点によっては成り立つ気もする。マーク試験の自分の解答を見返すとよほど作為的に振舞わないかぎりジグザグになっているように見える。これを人生に例えてみる。マークの左側を悪として右側にいくほど良いとすると、悪いことが連続した場合それは1つの連続した悪い出来事のように見える、逆もしかりだ。ある地点で左右に大きく振れるとそこで「塞翁が馬」が発生する。伝わっているだろうかわからないがそんな風に人生を連続する点としてみると「塞翁が馬」も成り立たなくもない気がする。

 そもそも「いいこと」って何だろうか。それは個人によって異なると言ってしまえばそれまでなのだけれど、ぼんやりと自分の人生とやらをプレイしていると「良い」と感じる瞬間がある。この自分が「良い」と感じる範囲を最大まで拡大してみると、「自分が生まれ出でて今日まで生命活動が維持されている」ことまで到達し得る。し得ると書いておいて何だがそれはあり得ない。「自分が生まれてきて生命活動が維持されている」ことによって生まれる苦しみ悲しみ絶望怒りも同時に存在しているからである。「生まれたことに感謝」とか言っちゃってるやつに対する「寒すぎてワロタねえ」という冷笑が確実にある。ただ喜びと悲しみが同居しているからといって自分の「良い」を「自分が生まれ出でて今日まで生命活動が維持されている」まで拡大できない理由にもならないという気がする。ならばどこまでなら「良い」の範囲を拡大することができるだろうか。少なくともそれは足の小指を強打し悶絶することのない状態のことだろう。