超える何か

どうもニートです。不社会不適合者の皆さんお元気にされているでしょうか。僕の近況はと言いますと4月の末ごろに購入したモンスターハンターライズが面白すぎて、ゴールデンウィークがゴールデンマンスになってしまいました、トホホ。

 

相変わらず就活にまともに取り組めていない。なんのために就活をするのかという問いの答えも未だ見つかっていない。そもそも万人によって答えが変容する問いに向き合うべきではないとは思いつつも自身の置かれた状況にどうしても納得できない。そして納得できないことに心を擦り減らしたくはないので現実逃避をずっとずっと続けている。「なぜ就活をするのか」という問いの答えとして考えられるものの中で最も納得できるのは「友達がやっているから」でこの答えが成立している間に就活を終活しておくべきだったとは後悔している。次点で有力な解答は「不可逆だから」というのがある。サラリーマンからニートやフリーターになるのは容易いが、ニートやフリーターからサラリーマンになるのは容易ではない、この不可逆性に着目して現状の行動を決定するのはそれなりに納得できるが、ニートやフリーターでいることよりもサラリーマンでいることの方が社会的価値が高く、かつ幸福度も高いという前提に立っていることの正否を今の自分では判断できないのでこれ以上踏み込めない。

 

結局やりたくね~という気分にそれらしい理由を付けて自己正当化しているだけなのだ。

 

じゃあ翻ってやりたいことはなんだろう。今やりたいことはゲームなのだけれど、以前は他にやりたかったことがある。年収、学歴、職歴で男を上から目線で評価している、顔はそこそこ良くておっぱいもデカいが魂は下の下の女で己の性欲を満たし、女の市場価値が下落してきたところで売りに出すことだ。名札でしか他者を評価できない社会悪を成敗して気持ちよくなりたかった。でも多分この先社会不適合の俺がこういう下の下の女の目に留まることは恐らくないだろうからこれを見ている君たちがこういう女を裁いてくれ、俺からのお願いだ。

 

そもそも他者を年収や学歴、職歴で評価することと、顔の小ささとおっぱいとケツのデカさで評価することのどちらの方が罪深いのだろうか。前者は後天的で環境によって変化するが、後者は先天的で一度確定するとなかなか変化しにくい。逆転可能性という評価軸で考えると年収で付き合う男を決める女より顔とおっぱいで価値を決める俺の方が罪深い存在なのかもしれない。

 

畢竟「就職活動」というやりたくはないが、立場上最も有力な行動を自分の中で納得できるものに落とし込むには、魂の売買という茨の道を越えた先に自分の欲する何かがなければならない。今の俺は「超える何か」を探している。