戯言

 ここ最近遊戯王マスターデュエルとモンハンライズばかりやっている、どうも社会不適合者です(笑)。(笑)をつけておけばなんかいい感じになるってダンガンロンパモノクマも言ってたしとりあえずつけとくか。以前は就職活動をせねばという機運があったのだけれど最近はそれがなくなりつつある。

 

 その理由はいくつかあって、まず父に怒られることがかなり減った。これがかなり大きい、というかほぼ全てだと思う。父に怒られると精神的にキてしまうので、俺はどうすれば怒られなくて済むかというのを考え一つの結論を出した。「怒られとは構造」だということだ。怒られる人と怒る人がいて他に場所や時、気分が重なると人は怒りたくなると仮定した。逆にこの要素を揃わなくさせてしまえば「怒られ」が発生することもない。可能な限り父との対面を減らし、父のいない時間に起床するようになってからは「怒られ」の回数は激減した。おお、理由がいくつかあると書いたがこれしかなかったよ。怒られなくなってからめっきり就活をしなくなって「怒られたくないから仕方なく就活をしていた」ことに気づかされた。怒られていたほうが良かったのかもしれない。

 

 親側の立場から俺が毎日暇を貪ることにそこまで怒らないのはいくつか理由があるのだと思う。1つは今俺は父の扶養に入っておりその手続きに数か月かかり様々な書類を集めなければならず傍から見てかなり労力がかかっていた。その俺にすぐ出ていかれたら、また扶養から外す申請をしなければならないし、今までかけた労力が無駄になるから今のままでいることにそこまで文句を言わないのかもしれない。2つ目は俺が24まで親と暮らしていなかったからということではないかと思っている。中学高校は寮生活で大学もひとり暮らしだったために久々に息子と暮らすからある程度許しているのかもしれない。理由はよくわからないが俺が今許されていることだけはわかる。

 

 そんなこんなで毎日暇なことばかりしていると雲や川の水が流れていくような心持ちで日々過ごしている。次第に外に出て何かしようという気概が失せていく。よくマンガやアニメに出てくるニート像として「良い年して働いていないがそのことを何も気にしていないし、なんなら誇りさえ持っている」人間が出てくるが、自分がそれに近づいているのを感じる。ニートであることの最も恐ろしいことは「下界に出ることの敷居が上がっていき家の中でしか生きられなくなる」ことだ。家にいれば楽しくて安全なのにわざわざ外に出て危険な目に遭うことを受け入れられなくなっていく、だがいつかは外界に触れなければならないこの辺りがニートの暗黒面とも言えるだろう。まあとんでもなく嫌な会社で働くよりはそれでもマシかなとは思っている。

 

 「働かなければ」、この気持ちが俺の中にわずかに残っている。その一方で「本当に働かなければならないのか」という疑念がある。こんなこと現在進行形で社会人をやっているであろう皆様に言っても仕方のないことなのだけれど。俺たちは本当に働かなければならないのか、「やりたいことを2日やるためにやりたくないことを5日やる」というのをとりあえず65歳まで続けましょうというのはやはり納得できない。頭おかしいんじゃないのって思う。自分の労働に対する気分が5段階あったとして、5は「労働ってサイコー」って状態。1は「働きたくないけど生活のために働いてます、死の一歩手前です」って状態だとする。5は現実的に不可能だろう、仮にやりたいことが仕事になったとしても仕事をしていく上でやりたくないことの有象無象が付随し、次第にやりたくないことになっていくから、1みたいに無理に働くこともない、いや実際には無理に働いている人がたくさんいるから社会は回っているのだろうけど。俺は1の気分では働きたくない。2から4の中でなるべく4に近いようなそんな働きが出来たらいいよねと思っている。そのためには「やりたいこと」の範囲を拡げていくか、「やりたくないこと」の範囲を狭めていくかのどちらか、どちらもが肝要なのではないか。「究極的には働きたくないけどまあ働いてやってもいいか」この辺りが落としどころなのではないか。そんな戯言を妄想している。